仏生山」の由来と近隣の説話涙


 仏生山には、「法然寺」というお寺があります。1668年に、水戸黄門の実兄である初代高松藩主松平頼重公が、松平家の菩提寺として開いたものです。法然寺を建立中に仏舎利が出てきたことから、山号を「仏生山」と名付けたとのことです。正式名は、「仏生山来仰院法然寺」「讃岐の寝釈迦」と呼ばれる寝釈迦像を中心に、鳥獣人物52類の立体涅槃像群が再現されています。法然寺は、昔の趣がよく残っており古の情緒が楽しめます。

 若宮神社は、仏生山公園前池の東南に鎮座する神社です。以前はトリム広場の北、前池に突き出た場所に鎮座していましたが、公園整備で現在の場所に遷座されました。

 昔、この地域を「百相村字荒」と称し、周囲は草木生い茂り、妖しい火災が再三発生していました。危険を感じた村人は文政11年10月、火伏の神として知られる静岡県「秋葉神社」より御霊を受け、鎮火祈願のため、当神社に創祀しました。それ以降、氏子は春、秋、と二回祭事を行い、春の1月中日には終日、「お日待ち神事」を行い、災害の無い平和な地域である様祈願している。

 「ちきり神社」には悲しい説話が語り伝えられています。それは仏生山町と香川町との境の高台にある平池にまつわる物語で、人柱となった霊をここに祀り、勝神社の由来となったと言われています。

 およそ800年の昔、治水2年、村人達は治水に困り果てていました。というのは平池の堤は幾度築いても雨が降るたびに崩れ、田畑は水に流されて普請奉行の阿波の民部田口成良も難工事に頭を抱えていました。京の都からは平清盛の厳命が届き、その晩疲れはてて眠りについた成良の枕もとに白衣垂髪の精霊があらわれ、不思議なお告げを残して姿を消しました。

 「あすの牛の刻、白衣垂髪の乙女が械のチキリを持って通るであろう。その乙女を人柱として堤に埋めれば工事はきっと成就する」

 そのお告げを信じた成良は早朝から人夫たちに堤を見張らせ、乙女の来るのを待ちかまえました。ほどなくお告げの通りチキリを抱いた白衣垂髪の乙女が現れ、「今月は大の月な小な月な」と尋ねると、乙女を捕らえ、準備した穴に投げ込み、急いで土をかぶせてしまいました。それ以後、不思議にも「おつげ」の通りに人柱の上に築かれた堤は、大雨にも崩れることがなくなりました。

 しかし、チキリ乙女の悲哀は決して村人の耳から消えることなく、人柱として埋められた堤の一ヶ所はいくらつき固めても岩はだをにじみ出る水が絶えることがなかったそうです。すすり泣くように「いわざらん、こざらん」と聞えて来ると言われています。その場所は後世の人たちから「いわざらこざら」と呼ばれているそうです。

法然寺・若宮神社・ちきり神社
法然寺 若宮神社 ちきり神社
 法然寺 本尊 阿弥陀如来 若宮神社 祭神 軻遇突智命 ちきり神社 祭神 稚日女命


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